ひねくれている。自分の性格が。長いこと自分をやっているので流石にわかってくる。
ひねくれているからなのかついつい否定から始めてしまう。何か意見をいわれても「それは違う」とか、
新商品をみても手入れが大変そうだとか、かさばりそうとかついつい悪い面を先にみつけてしまう。
否定から入るのはやめようと思う
否定されて嬉しい人なんていない。例えば誰かに意見を求めるとする。相手は色々と考えて自分の意見をいう。それを否定するとどうなるか。最初のうちこそ「じゃあ・・・」と別の意見を言ってくれるかもしれない。でもそれもまた否定して次の意見も否定して・・・なんてことをしていると意見をいうのをやめてしまう。ああ、この人にはなにを言ってもダメなんだ。だったら意見するのはもうよそうって。
これを学習性無力感という。何をやっても無駄と思ってしまう。自分を否定され続けるなど、長期的にストレスを受ける環境に身を置くとこうなるらしい。
まずは受け入れる。肯定するんじゃなくて受け入れるのだ。よいでもだめでも、判断をするのではなく受け入れる。
その上で自分の考えをいう。これがなかなかできないし難しい。
受け入れる。そうはいうもののこれもそう簡単ではない。生きていると受け入れられない事も多々ある。まざまざと見せつけられる現実はとても残酷だ。それでもなお生きなければならない。生きる事に意味なんてあるんだろうか。一生答えの出ないような問いをついつい考えてしまう。
生きる意味とか目的とか、そんなものないっていう人もいれば、目的を持って生きようっていう人もいる。
相反する意見が渦巻く中、自分は何を信じ受け入れればいいのだろうか。絶対的な正解なんてなくて絶対的な間違いもきっとないのだろう。いや、絶対。絶対ということは絶対ないことだけが絶対なんだ。
信じる・信じないとか、意味とか目的とか。日常を忙しく暮らしているとそんなことなんか考えずにあっという間に日が過ぎていく。そんな答えの出ないことばっか考えていないで、資格の勉強だとかキャリアアプのためにどうとか、つい現実的な実用性のあることをしようと思ったりもする。というか、今の世の中だそんな感じだ。
インターネットが普及して情報量が爆発的に増えた結果、ちょっと調べればすぐ答えが見つかってしまう。
みんなどんどん安易に答えを求めてしまう。それも白黒はっきりついたわかりやすいものを。
でもなんでもかんでもそんなわかりやすい答えがあるわけじゃない。むしろ白黒はっきりした答えがある方が少ない。
必ず正解があっていかにその正解を効率的に導き出すかをひたすら求められる学生時代。いざ社会に出るとそんな正解がどこにでもあるわけではないことに気づく。
もし答えがあったとしたら早く知りたいだろうか。私は正直知りたいと思う。でも、初めから答えのわかっているパズルを解くなんてつまらなくないか。
たとえ難しくても苦しくても、ずるして答えを知ることなく自力で導き出したい。
答えがあるのかもわからないけど。そもそもそんなパズル自体あるのかどうかもわからないけれど。